「プロレスバカ」剛竜馬さん敗血症で死去(link to Nikkan-Sports)
'79年藤波辰巳選手のWWWF王座に挑戦→奪取はリアルタイムで見ていたしインパクトがあったので、彼のことはよく覚えている。今思えば、この頃はIWAタッグ選手権をめぐる抗争(木村選手のトペで浜口選手が失神してしまいノーコンテストとかなんとかで大もめしたりとか)やら藤波vs(阿修羅)原といった新日本‐国際のカードが単発的に組まれていたりして、そうそう現場に行けなかった当時中~高校生のワタシはかなーりwktkしながら別ゴンのグラビアページを繰ったものである。
ひょっとしたら、剛選手がフリー宣言したのは彼自身の意思でなくこの一環だったのかもしれない。
短命に終わったとはいえ、一度は藤波選手を降して王座を戴冠した剛選手が新日本に入団したのは当時厨房だったワタシにはどうにも理解できなかった。前述の阿修羅原選手が加わって三つ巴の展開になればおもしろかっただろうし(ちなみに当時の全日本は今みたいにJr.ヘヴィー級以下の中量級はあってないようなものだった…大仁田選手がチャボゲレロ選手からNWAインター王座を奪取したのは'82年で微妙に時期がずれている;さらに、藤波選手らと入れ替わるように初代タイガーマスクが出現したのも大仁田選手には不幸だったかも)、さらには売り出し中のダイナマイトキッド選手やらマークロコ選手(後の初代ブラックタイガー)が絡めば、後のトップ(ベスト)オブザスーパージュニアに勝るとも劣らないムーヴメントが起きたかもしれないのにねぇ。
実際の試合会場で初めて剛選手を見たのは、忘れもしない'80年の夏。田園コロシアムの興行だった。第4試合というどっちつかずのポジションで、ストロング小林(金剛)選手との30分1本勝負。正直、淡々とした試合展開であった…という印象しかなく詳しい内容は覚えていないが、剛選手はアトミックドロップ一発でピンを取られてしまう。この時をきっかけに、彼の存在感が急速に薄れていった。
第1次UWFではすれ違いで直接試合を観る機会はなく、紆余曲折を経て久しぶりにテレビに映った剛選手は、やっと上がった新日であっさり藤波選手の軍門に降る。彼の姿を最後に直接観たのが東京ドームで行われた「夢の懸け橋」だった。プロレスバカとして名を馳せていた剛選手にとって、5万人とも6万人とも言われる観衆の「ショアッ!」コールはさぞ気持ちよかったことだろう。
その後の行状にはあえて触れない。意地悪な表現をすれば、一度栄光を味わった男がそれにすがる(あるいはもう一度…の夢を見てあがき続ける)人生はどう見ても格好のいい生き方ではなかった。一度は警察屋さんの世話になった(ことがきっかけで離婚の憂き目を見た)が、これほどまでに自らの生き方を通しまくった剛選手は決して「今際の際」においても後悔することはなかった…と思いたい。
謹んでご冥福を祈る。